掌編 八 咫 鴉
序章(プロローグ)
サンドイッチ考
ぼくは寓話の「コウモリ」である。
昔、鳥の国と獣の国との間に戦争が在った時、戦局の事態を観戦しつつ、鳥の国が優勢になれば鳥を、獣の国が優勢になれば獣を自称して、身の保全を計ろうとした為、講和が成立した後で、双方から、のけ者にされ、終生、洞窟の中で生きていかなければならなくなったという、例の「コウモリ」のことである。
蝙蝠(こうもり)には羽翼があるから、飛ぶ真似はできるが、所詮は昆虫の翔鞘みたいなものだから鳥みたいに飛行力がない。嘴の代わりにネズミなみの歯牙がある。動物学的にはれっきとした哺乳類に分類されるが、見た目には、どうも、「ケモノ」だとは言い難い。
まず、ぼくの話す言葉である。日常使うのはアメリカン・イングリッシであるが、日本人特有のアクセントが人一倍激しいから、この国で生まれて育った未だ十代の息子の足元にも及ばない。
日本語はもちろん未だ話せる(つもりでいる)。しかし、月に一、二度の買い物で立ち寄る日本人町でしか使わないから、聴くも無残な日本語になってしまっている。日本にいた時から、あまり立派な日本語ではなかったのだから、無理も無いが、国から遥々国際電話入れて下さった恩師が気の毒がって、「大分苦しそうだな。良いから英語で話せ。オレは日本語で話してあげるから。聴くだけならオマエ、未だ分かるんだろう」と言われて、さすがに深刻になった。
自分の考えを表現するに当たって、言葉のアイデンテティを失うのは、想像する以上に苦しいものなのである。言葉は今更其の定義を論ずるまでも無く、意思伝達の 媒介体(ビヒクル) であるから、其の作業を行う言葉の自主性をうしなうということは、文字どうり言葉の喪失を意味する。「腹が空いた」「頭が痛い」とか言う肉体的な現象の描写はできても、だから、どうしてもらいたいのかという心の微妙な要求を正確に表現できなくなる。大袈裟に表現させてもらえば、意志そのものすら喪失してしまうような危機感すら覚える次第となる。
次に趣味、好みである。
「好き嫌い」、「選り好み」はいけないと言われて育ったぼくには、欲しいものをハッキリ言う訓練が出来ていなかった。無理も無い。「欲しがりません。勝つまでは」と言う時代に育って迎えた敗戦。三度の食事は、二度、一度となり、衣類は下着に至るまで親兄弟共同の「オサガリ」と言う生活を、少年期に経験してきたものである。
終日、空腹を抱えて過す餓鬼の口には、何を食わせてもらってもウマかったし、我が身にぴったり合うシャツやズボンなど着た事も無い体には、少し位窮屈だったり、逆にガブガブの衣服をあてがわれても苦にはならなかった。当然お仕着せや、据膳式の生活に慣らされてしまっていた次第だ。
だから、サンフランシスコに来て、まず困ったのは、身の回りに在るべきものを買ったり、食事を外で注文する時の事だった。同じ運動靴にもランニング用、テニス用、ボーリング用が在って、用途に従ってハキ変えるものだと言う事は、理由さえ分かれば便利なものだと感心させられるものだが、スポーツの種類が違えばシャツやパンツまで着替えるものだと言う事を納得するのには少し時間がかかる。
当たり前の事かもしれないが、衣類品にはサイズの違いがある。しかし首の周り、袖の長さ、胴回り、下肢、足の長さなど測った事も無いものが、規格されたサイズを 暗(そら) で言えるわけが無いのだ。
自慢ではないが、新しい靴を履く当初は、痛い思いをして然るべきなのだと思って育ってきているから、自分の欲しいものを品定めするとなるとなると、履き心地よりも、色具合いやスタイルのほうが先に気になる。売るほうが困っているのを、大きすぎたり、小さすぎたりする靴を、ただ、格好が気に入っただけのことで、強引に買ってしまった事も一、二度に止まらない。
靴からにしてこの有り様であるから、シャツやズボンともなると、ぼくと売り子との間での奇妙な会話は押して知るべしである。
歯ブラシにまでサイズが在るのをご存知か。
この国で育ったものの買い物は、自分にぴったり合う事が第一条件であるから、自分のサイズが無ければ、色やスタイルが良いからだけでは買い物をしない。
靴 (シュウズ)を例え話しにした表現の仕方がたくさんある所以である。自分のした行為を正当化する為に当たって、(人それぞれには、事情の違いと言うものがあるのだから)人の批判はそのひとの独自の立場になって評価してもらいたいと言う抗議を申し込むに当たって、「youが若しmyシュウズを履いていたならば、meと同じ行為をせざるを得なかったであろう...」と言う言い回しをするのが其の一例であるが、ぼくの世代の日本人には、今一つピンと来ない表現であろう。
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